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教育・子どもの25年史 第4回

子どもの心の荒れはストレスから

牟田武生

1985年いじめの発生件数(小学校96457件、中学生52891件、計155.066件)。校内暴力(公立中学2411件)不登校(小学生4071人・中学生27926人、計31997人)だった。いずれも、現在とは定義が違うので単純に比較ができない。(データ、文部省)

いじめが社会問題として注目されたのも、この年だった。全国でいじめによる子どもの自殺が相次ぎ、文部省は同年6月にいじめ指導の充実を求める通知を出した。その後も福島県いわき市、東京都大田区などでいじめによる自殺が相次いで起こった。翌年86年には東京都中野区富士見中で担任教師も加担したクラス全員による「葬式ごっこ」で、鹿川裕史君(当時13歳)が自殺する事件が起きた。

いじめは、この年をピークに翌年には小学生26306件、中学生23690件、計49996件に激減する。その後も減少を続けた。だが、不登校は増加していった。カウンセリングをやっていた私は統計数字と実感との違いに戸惑った。不登校のきっかけとして、依然として、シカトや無視などのいじめが多い。いじめの質が暴力的なものから教師には見えない陰湿なものに変化しているのではないかと思っていた。その後、91年には大阪府豊中市の中学校で同級生によって女子生徒が暴行を受け死亡した。93年、山形県新庄市の中学生が学校の体育館で亡くなるマット死亡事件が起きた。

潜在化するいじめが、明確になったのは、94年愛知県西尾市で起きた大河内清輝君(当時13歳)が、長い間、同級生からいじめを受け「もっと生きたかったけど、See you again」という遺書を残し、自殺した後。いじめは大きな社会問題として再浮上した。文部省は専門家を集めて緊急会議を開いた。その「生徒指導上の諸問題調査」で、86年に起きた鹿川君事件以来、「いじめの定義」が、「自分より弱いものに対して、一方的に、身体的・心理的に攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているものであって、学校としてその事実を確認しているもの」となっていた。

実際に教師の前でいじめを受けていても、教師が、気付かなかったり、よくある児童・生徒同士のじゃれ合いだろうと考え、無視すれば、いじめではない。いじめを受けた生徒は加害者に恐怖感を覚え、教師の態度に失望し、信頼感が持てなくなり、不登校に陥った事例はたくさんあった。

大河内君事件以来、いじめの定義は一般的に「@自分より弱いものに対して一方的に、A身体的・心理的に攻撃を加え、B相手が深刻な苦痛を感じているもの」とされるが、ここの行為がいじめに当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行われるのではなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うとなった。

緊急会議主査の坂本昇一氏(聖徳大学教授)は「いじめられる子にも問題があるとの見方が親や先生の中にも多いが絶対に間違いだ。このような考え方を払拭しなければいじめの実態は見えてこない」と緊急のアピ−ルを出した。

経済的な豊かさを実感し始めた80年代から、子ども達には使われなかった「ストレス」と言う言葉が使われ始めた。子ども達も「ストレスが溜まる」「イライラする」と言う言葉をよく使い始めた頃である。

社会環境が大きく変化し、人間関係が希薄化し、偏差値教育によって塾通いの子どもが増え、子ども達の生活にストレッサーが増えた。溜まったストレスを発散するためのいじめや校内暴力は許される行為ではないが、その当時、子どものストレスを考えないで、大人達はいじめの数を減らすために、狭義のいじめの定義を作った。また、校内暴力に対しては毅然とした態度による力による指導や「高校入試に響くわよ」といった内申書を使っての姑息な手段で校内暴力は減少していったのだが・・・・。

以下次号

2005.4.15

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ご協力いただいている執筆者の略歴:牟田武生(むたたけお)

牟田武生(むたたけお) 1947年生まれ。72年に民間の教育相談機関である教育研究所を設立し、不登校を含めた 教育問題の相談・援助活動に取り組んでいる。現在、 NPO法人教育研究所(横浜市港南区)理事長。91年に教師・カウンセラー・児童相談所の相 談員等不登校にかかわる専門家を対象にした研修機関として不登校問題研究会を設立。元NHKラジオ「子どもと教育電話相談」相談員、不登校問題研究会代表幹事、元文部省 「不登校の実態に関する調査」検討委員会委員。
主な著書:『ひきこもり/ 不登校の処方箋 増補版』(オクムラ書店)、『すぐに解決!子どもの緊急事態Q&A』 ( オクムラ書店)、『ネット依存の恐怖』(教育出版)など。