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教育・子どもの25年史 第6回
牟田武生
80年代に入り不登校の数が増加し、マスコミも不登校について本格的に報道し始めた。そのきっかけになったのが、戸塚ヨットスクール事件である。
83年6月、愛知県知多郡美浜町の戸塚ヨットスクールの戸塚宏校長(当時42歳)ら関係者が逮捕された。直接の容疑は前年の82年12月、訓練生である藤沢市の鵠沼(くげぬま)中学1年の小川直人君(13歳)をヨットの上で角材などで殴り、死亡させた傷害致死事件である。小川君の死因は外傷性ショック死だった。
それ以前に、同ヨットスクールでは79年2月、少年(13歳)が死亡(病死として不起訴)。80年11月、古川幸嗣(21歳)が死亡。82年8月、奄美大島での合宿の帰りにフェリーから水谷真(当時15歳)と杉浦秀一(当時15歳)が太平洋に飛び込んで行方不明になっている。
戸塚ヨットスクールは77年に開設され、登校拒否(のち不登校)・非行・家庭内暴力などを起こした子どもを集団生活とヨット訓練によって矯正、治療する目的で設立された。
その当時、戸塚ヨットスクールのような民間施設は、「学校に行かない」「非行行為をする」「校内暴力を起こす」「家庭内暴力を起こす」などの誤った行動を行うことを治すと言う観点から“矯正施設”と呼ばれ、マスコミはこれらの青少年の問題行動を治す切り札として大々的に取り上げ報道をした。当時、文部省は不登校を特定の子どもや家族に起こるものとしていたので一般的には情緒障害児と呼ばれていた。
この問題で悩む親達は公的機関が対応できずにいたので、藁をもすがる気持ちでこのような民間矯正施設に子どもを預けた。矯正施設は全国に数箇所あり、戸塚ヨットスクール事件後も全国各地で指導者による傷害致死事件が起きた。そのために92年に文部省が民間施設のガイドラインを作った。その後、傷害致死事件は起きていない。
戸塚ヨットスクール事件によって不登校は脚光を浴び、世間で認知されていったが、印象として、登校拒否児(不登校児)は情緒障害児で学校を長い間休み、家庭生活をメチャクチャにする家庭内暴力児というレッテルが貼られ一人歩きをしだした。
情緒障害児は本人自身の精神的問題であり、親の育て方の失敗として学校や教育関係者から見られていた。そのように世間から冷たい目で見られていた親達にとって、初期の理念として「学校に行かないで生きる」とし、学校批判を掲げた東京シューレが85年に設立されたことは心強かった。東京シューレと「不登校を考える親の会」は、苦しみを共有する親達の間に支持され、瞬く間に全国に拡がって行った。
マスコミも戸塚ヨットスクールの後釜として飛びついた。新聞やテレビのインタビューに答える“不登校児”は誰が見ても、情緒障害児には思えず、自分の生き方や学校教育の無意味さを雄弁に語り、「無理をして学校に行く必要はない」の説得に打たれた。
マスコミの情報でしか分からない一般人は、不登校児は自分をしっかり持っている。心配することはないと感じた。当時、多くの人の意識に不登校の中核である、ひきこもる不登校児の存在などは知る由もなかった。
無論、一部のマスコミはひきこもりの子ども達がいることは理解していたが、調査がなされてないので、その実態が掴めなかった。ましてインタビューに応じるひきこもりの人などいる筈もなく闇に隠れていた。それゆえ、当時の不登校対応としても、情緒障害児に向けのものや元気な不登校の子ども達に対応する登校刺激的なものが多かった。
ひきこもりの子どもへの対応はあとでになり時間だけが経過し、ひきこもりが長期化し、社会的ひきこもりやニートの核になっていく原点が80年代に芽があった。
以下次号
2005.6.17
ご協力いただいている執筆者の略歴:牟田武生(むたたけお)
1947年生まれ。72年に民間の教育相談機関である教育研究所を設立し、不登校を含めた
教育問題の相談・援助活動に取り組んでいる。現在、
NPO法人教育研究所(横浜市港南区)理事長。91年に教師・カウンセラー・児童相談所の相
談員等不登校にかかわる専門家を対象にした研修機関として不登校問題研究会を設立。元NHKラジオ「子どもと教育電話相談」相談員、不登校問題研究会代表幹事、元文部省
「不登校の実態に関する調査」検討委員会委員。主な著書:『ひきこもり/ 不登校の処方箋 増補版』(オクムラ書店)、『すぐに解決!子どもの緊急事態Q&A』 ( オクムラ書店)、『ネット依存の恐怖』(教育出版)など。